ひきこもり。
社会との関係を断ち、長期間ほとんど外に出ずに家で過ごす人。

ひきこもりという言葉は、ただ止まっている人を指すように見える。
扉を閉ざし、世界とのつながりを断ったまま生きている人。

外から見ると、止まっているように見える。

そして時には、その内側の時間さえも本当に止まっているかのように感じられることがある。
考えも、心も、前へ進もうとする意志さえも、冷えたままそこにある。

しかしその「止まり」は、ある日突然選ばれたものではないかもしれない。

人は最初から隠れる存在ではない。
怖くても踏ん張り、どうにか合わせようとし、自分の居場所を作ろうとする。

けれど、ある瞬間から小さなずれが繰り返され、ささいな失敗が積み重なり、その上に重なる視線が少しずつ重みを増していく。
それは言葉となり、評価となり、やがて簡単には消えない名前のように残る。
そうして積み重なったものは、目に見えない形で人の心を少しずつ削っていく。
自信は下がり、自己肯定感は薄れ、ついには自分自身への信頼さえも崩れていく。

そしてある時、もう一度進もうとする気持ちよりも、立ち止まりたい気持ちの方が大きくなる。
再び傷つく可能性を、これ以上受け止められなくなるからだ。

だから扉を閉じることは、逃げではなく、これ以上壊れないための選択なのかもしれない。

自分だけの世界へ入ることは、世界を捨てることではなく、世界から少し距離を置く方法。

それでもその状態は、依然として「静止」として残る。

何もしていない時間、何も変わらないように見える場所。

けれどその「止まり」を軽く言葉で覆ってしまうには、その中にあるものはあまりにも深い。

仕事はまた覚え直すことができるが、人と人との間に残った傷は簡単には消えない。
悪意は長く残り、視線は心を締めつけ、たった一言が傷となって留まる。

だから、再び立ち上がる人もいれば、その場に留まる人もいる。
そしてまた、すでに壊れたまま、何事もない顔で生きている人もいる。

ひきこもりを一方的に非難するのではなく、少しでも理解し、手を差し伸べることができたなら、変わることはできないだろうか。

その「止まり」は怠けではなく、耐えてきた痕跡かもしれないし、
その場所でさえ崩れないために、かろうじて保っている均衡なのかもしれない。

安易に決めつけるのではなく、なぜ立ち止まることになったのかを問いかけることは、そんなに難しいことだろうか。
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